目に見えないものの辛さ

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精神的障害は、目に見えない。その中でもなまじっか何かできる方向にいるものは発見が遅れやすい。最近の出会いでそうではないかと思ったことがある。

それについて書いていこうかなと思った。

目に見えてわかる障害と、目に見えない障害。

たとえば今の障碍者年金なんてものはあるけれど、それも身体的欠損が主だったりする。

目に見えて、つらい人。

それが判断しやすいのはわかるし、仕方ないところもあるけれど、何年前の指標なんだろうと思ったりもする。

障害というものを抱えて生きていくのにどうすればいいのかは常日頃考えてはいる。このブログも一応その位置づけではあるが、まぁ雀の涙。

もともと自分の備忘録とその他というものでもあったから期待はしてないところもあるけれどやはり、現実的に難しいと思う。

人間というものは不思議なもので、宙ぶらりんの立場が一番悩むところなのではないかと思う。

バッサリと割り切る方向に行ければいいのだがそれができない。Aさんはそれでもいいところあるし…などと考えていた時、それはAさんにやられて嫌だったという感情を無視しているに過ぎない。

例えば虐待の話に移ろう。

親から虐待を受けて、ずっと良い思いをしないで生きてきた。

暴力、ごはん抜き、おおよそその時に持てないような大量の買い物。それが連日続けられていた。

それならば親を憎めるだろう。

別の場所で生きていくんだという決意も生まれるし、見返すという原動力にもなるかもしれない(ただし、見返すでうごくと自分の存在意義が不安定になってしまうところはありがちである)

では、暴力もされず、衣食住は足り、だが、要所要所の決定的な部分で親に否定された場合はどうなるだろうか。

ほめてほしいところでほめられず、親の気まぐれで存在意義を決定づけられる。

親の機嫌がよいときに、ほめられるなら、機嫌を良くさせよう。よろこんでもらうためにやろう。

どこを見ても他人本位の考え方になってしまう。

その時には逆らいたかったり、別のことをやりたかったとしてもいい子でいるがゆえに、いい子でいることで親が喜ぶがゆえに、その場で解離が起こる。

やりたくない、反抗する自分を切り離し、いい子の自分を自分だと思い込む。

だが、心の中で反旗を上げる感情はくすぶり続けている。

言えないことは言えないままの感情でどんどんたまっていき、解離の度合いも強くなるのではないだろうか。

解離の話ができた。ここから、中途半端なDIDのことを話していきたい。

自分には、目をつむりました、次に見えたのは違う風景でした。

というようなことはない。内向的なものも多いせいか徘徊もしない。

なにそれ本当にDID?と思われるのもごもっともで自分も、DIDなのかという確証は得られていない。(そもそも得られるものではないのかもしれないが)

haruさんの心象風景の中に、テレビと、机、椅子、本棚というものがある。

大抵一緒なのだが、違うのは、テレビの前に置かれたイスとテーブルに、ついたひとが、今出られる人らしい。

そしてもう一つ。

haruさんの主人格のテーブルは別にあり、テレビが見られるテーブルとは別なのである。

記憶の共有が難しいのはここにあるのではないかと思う。それでも、主人格が出たいときに出ればいいというスタンスでいるから、たまに違う場所にいるなどで済んでいるのかもしれない(済んでいるとは語弊もあり、適切な言い方ではない。どこか帰れなくなったり、生傷をこさえて家に帰ることもよくあるだろうからそれはかなり大変だと思う)

では筆者たちはどうか

主人格は引きこもりで部屋にこもりがちだが、たまに出てきて一緒に視点という名のテレビを見ている。人との交流で必要と感じれば出ずっぱり。

10くらいの人格がいても実質話せるのは主人格含めて2なので出ずっぱりも当たり前か。もう一人いなくはないけれど、性的なことに特化したものなので、今回は勘定にいれない。

ルームシェアタイプなのはこちらも同じだった。主人格用の本棚、別の人格の共通本棚があるらしいが、自分のところは何となくある気はしない。

伝聞方式で教えて、何となく理解をして、現時点の理解をするところは何となく一緒だったかなぁと思う。

こういう差異から記憶がなくてもまぁいいか。人の話には推測で話を合わせる。そういう技術ばかりが長けてきたような気はした。

筆者の場合、なまじっか主人格がテレビを見て共有ができていたので発見が遅れたところもありそうだと思う。

こういうところで発見が遅れるのは、DID症状を持っている人は良くあるのかもしれない。なにせ、(特に自分の場合だが)何を覚えているのかもわからないので、症状が説明できないのだ。

「先週までどうだった?」

「ちょっとよくわかんないですね。たぶんよかったと思います」

こんなやり取りがくりかえされて治るものも治らないし、改善するものも改善しないのではと思う。

見えないものをよくわからないとするのではなく、小さな違和感、中途半端な感情もくみ取っていくのが発見の第一歩だと思う。

よくわからないのは薬のせいだからと医者もスルーする可能性がある。そうなりそうなとき、個人的には第三者の同行を勧めたいと思う。

早期発見というものはどういうものであれ、大切なものである。

この年になってやっと自分を知ることが重要だと遅まきながら理解した。

ノリでなんとか行けるだろうといえる時期はもうとっくに過ぎた。本当に遅すぎたと言ってもいいかもしれない。

だからこそこれらを見ている方はWAISの診断などで自分を知る機会を早めに作ってもらいたいなと思った。

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