自己の存在

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自分が何者であるか、考えたことがあるだろうか。

親につけられた名前が自分の名前。戸籍に登録されているものが自分の証明。

果たしてそうであろうか。

筆者だって好きでDIDを名乗り、疑われやすいネットでこう書いているのではない。

自分の頭の中では処理しきれないことが起こっており、DIDというものを深く知りたいと思って書いているのである。

人間だれしも頭がおかしいと思われるようなことは言いたくないしやりたくない。筆者だってそうだ。このブログだってフィクションであると思われても構わないと思っている。それで面白いと思えるのであれば正直なんでもいい。いつだって自分のことを後回しにして周りを見てきた。今回もそうだ。自分と向き合えずに生きてきただけなのに。

実際自分と向き合おうとしてみるとこんなにも大変なことはない。

まず第一に自分ひとりではない。

何故か価値観が一つに定まらず、色々なものについていろいろな感想が出てくる。

映画なんか最たる例で、同じシーンで被害者に同調するかと思えばふと加害者側も気になり、もしかしたらこう思っていたのではないかと加害者をかばい頭がこんがらがる。

普通はどちらかで、二回目を見たり思い出したりしたときに両方の心情の推敲が出来たり、他の人から別の考えを聞かされたりして気付くものなのだろうか。

正直他の人の考えなど思考をのぞけなければ分からないものだし、いまだに自分が普通なのか普通じゃないのかわかっていない。

だが、上の例で行くと被害者の気持ちと加害者の気持ちが一つのシーンで押し寄せてくるのは自分だけなのかと思う。

それも仕方ないことで、色々な価値観を持つ者が一つの中にいて、同時に感じるのだから順序や推敲のへったくれもない。被害者側と加害者側の悲哀がいっぺんに押し寄せてくるのである。正直疲れる。

書くとすごくややこしいのだが、人格によって同じシーンでも別の感想が生まれ、それが押し寄せてくるから疲れる、ただそれだけなのである。

そういえばなぜDIDだと思うに至ったかは話していないような気がする。

まず始めは、不安定さだった。

何もないのに叫ぶ、泣くが毎日で、本当に何が起こっているのかが分からなかった。

紐解けば他の人格(トラウマを背負う人格)が悲しく思ったり、そもそも人格として認めてもらえていないことの不満から起こったものではないかと思う。

現にもしかしてそうなのかもと自覚した時から叫ぶ、泣くは目に見えて減った……と思う。正直叫ぶ泣くといった記憶も若干朧気で、自信あるものではない。が、同居人が叫ぶ泣くが減ったと言うのだからきっとそうなのだろう。

だからと言って今までのトラウマが減るわけでもないし、依然変わらないところはあるのだが不安定感は多少薄らいだ。

次に、これもまた昔のことだが記憶喪失になったりしたことがある。

記憶喪失というか記憶障害というか。それも同居人との話で出たことで当時のことは自分も覚えていない。まさにここはどこ私はだれ状態である。

当時はどうやって戻ったのかもわからないが、今となっては自分は変われども自分のままだったりするし変わったときが分かる(軽い痙攣やひきつけを起こし、眠ったようになったり白目をむいたりした後に別の者になる)ので多少整理されて楽にはなっている。

楽にはなっているとは書いたが、いきなり痙攣を起こしたりするので、やっぱり日常生活には不安が残る。あとアイデンティティの保持にこうやって書かなければいけないのはめんどくさいと思わなくもないが文章を書くのは好きなのでそれはそれとする。

勿論、症状だけの判断ではない。今のところ診断結果待ちでもあるが、心理検査は多少受けている。WAISにロールシャッハ。少なくともWAISでは生きづらいのではないかという結果にはなった。(後日別記事。分析してから自分の結果とともに載せようと思う。)

まぁ生きづらさはあるがそれでも生きていくらしい。自分という存在に自信を持ち、自分たちで生きていこうと思った。

ちなみに、自分が楽になる考えを持ったり出会うことは非常に重要であり、逆に言えば真実であろうとなかろうと、持った考えが自分にとって楽でありそれで活動しやすくなるのならきっとそれで生きていくのが正しいのだろう。

人生において自分にとって楽な考え方を早く得られると楽しいのではないかと思う。ただし、その考えを押し付けたりしなければ、の話であるが。

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